「一隅を照らす高田寺」愛知、名古屋 やすらぎの寺 |
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国指定重要文化財
高田寺御本尊象について
高田寺の本尊薬師如来坐像は、日本の古い仏像の中で、他には見られない個性的な特色を持つ唯一無二の靈像である。まず、本像の間近な位置に進み、御像を深く拝する心で、その特色を観ることとしよう。
像は左掌の上に薬壷(後補)を持つ式の通常の薬師如来の坐像である。頭部は肉髻相(頭部の肉が盛り上がっている相で、常の人とは異なる尊さを表す)で、螺髪(巻き毛)はそれぞれ別に造って植え付けてある。頭髪中の赤い肉髻珠と額の白毫珠(白い旋毛で光を発する)は、ともに水晶製で、その底にそれぞれ赤と白の伏彩色を旋している。大衣は胸前を大きく空ける式に着けて体を巻き、右足を上にして正しく両足を組んで坐る(結跏趺坐)。以上の形相はほぼ如来坐像の一般的な形で法に適っている。 材はカツラ様の材を用い、両膝先(別材)を除く全身の大部分を一材から掘り出している。この式の造り方を一木造りといい、木彫仏の歴史の中では古式な造法で、一〇世紀以前はすべてこの式である。 古い仏像は、宗教活動が絶えない限り、傷んだ部分を後に補って尊体の完好性を保持するのが原則である。本像の螺髪粒の大部分、耳朶(耳たぶ)の一部および両手首より先だけが後補で、保存状況は極めて良好である。 このほか、お顔と胸部などの肉身部に施された漆箔(漆下地の上に金箔を貼る技法)、衣に施された中世以降に盛んとなった盛り上げ彩色の簡略なものは何れも後補で、もとは素木の彫像であった可能性が高い。素木の仏像にはまたそれなりの深い意味がある。 本来仏像は、拝する者がその全身を隈なく拝することを前提にして造られている。人々を救済する本願をもってこの世に出現されたのだから、その心は必ずやサインとして尊像に表されているはずである。薬壷を持つということは、諸人の病を救うという本願に発するサインであることは言うまでもないが、そのほか、肉髻相、白毫相のほか、現在は、失われている光背もまた、尊体が発する光明を表わして、覚者である如来の大いなる力を示していたことは疑い無い。 こうした形相の表現に加えて、作風がこれに加わるということは言うまでもない。人間を遥かに越える大いなる存在として、その肉身と着衣もまた、常の如くであってはならない。仏を拝する第一印象の中に、強烈に訴えかけるものがあるとすれば、それがまず仏が示す第一のサインと見るべきものであり、数多くの同じ薬師如来の中で、本像が示す個性的な表現となる。それは多く神秘的なムードを持つものであり、拝者の心はそのムードに包まれて、このお像こそ世に二つとない靈験のあらたかな彫像であることを実感する。 いまこの高田寺本尊像を拝して、まず初めに感ずることは、着衣の皺が作り出す尋常でない印象である。全体として衣文の彫り口は深い方であるが、ゆったりとした流れには粘りが感じられ、厚く重い衣が垂れ下がっていくという動きが全体を掩っている。単なる賑やかな流れではない。多くの八世紀以降の正統な如来像が日常世界の肉身を掩う衣の襞としてだけではなく、如来の内面表現の多くをそこに託そうとして、整った美しさを目指しているのと対照的である。これに対して本像の場合はまったくその逆で可能な限りの密度と動きを衣に与えようとしているかのようで、その結果、日常世界では見ることの出来ない、精神そのものの形象とでもいいたいほどの城にまで達している。 この衣文表現のなかで、もっとも眼につくのは、左脇下に見られる縦長の渦巻きである。これは通常の衣の皺としては起こり得ないもので、従って描写的な造形ではない。宗教的な神秘感応の世界の象徴的な表現といってもよい。中心部は二本の條帯を起点とし、そこから発する渦巻きが脇下の狭長な凹みの形に沿って縦長に形成され、最後は通常衣文の形を成して終わっている。正面から拝したとき、この渦巻き衣文は颱風の眼のような働きを示し、そこには尋常でないエネルギーの求心的な流動があり、その動きは急である。 一方、像の右方(向かって左側)に眼を転ずると、右肩の大衣の下の衣は、腹部を経て足の脹脛まで垂れ、一部は長い三角状をなし、衣縁の蛇行を伴いながら尖った形をなして終わる。そして一部は前へ突き出した前膞を掩い、外側を垂下する。このあたりの衣文の流れはゆるやかで粘りがあり重い。衣が衣文そのものの集積となり、衣文としては最高度の密度を示しているといってよいであろう。 しかも、特にこの部分にみられる彫法は、線を彫るという感触は皆無に近く、粘土で盛り上げたような塑造的なタッチを示している。この観点から衣の表現を眺めると、足膝部の衣文のそれぞれの末端部が空気を孕むように膨らみを以って表されていることを含めて、捻塑的な感触が全体を掩っている。他にも例があるように、塑像全盛時代の造形をそのまま木彫に転写したもので、八世紀頃と思われる古式な一木彫にはこのような作品が多い。 第三に、注目すべき衣文表現は、正面観の視点をやや高くした時にはっきりと、見られる。 強くしっかりと組んだ右足裏の奥、すなわち左腹部の前に、折り重なるようにして蛇行を繰り返し、足裏の一部にかかる重々しい衣端がの動きがある。これは、左手にかかる衣の衣端であるが、ちょうど足裏と腹部とがつくるわずかな隙間に下方から涌き出ているように見える不思議な造形である。通常の如来坐像は、互いに両腿の上にまで足先を載せてきちんと結跏趺坐している様をありありと見せるものが多い。そのために、すっきりとした足首先を表すのがインド以来の定法であるが、本像はまさにこの方向に逆行し、徹底して衣文表現の乱れた動きを優先させている。ここまで来ると、もはや肉身につき従う通常の衣ではなく、衣自体が独立した生きもののように感じられる。肉身を飛び越えて本体の心とじかに結び合う表現といってもよいであろう。 第四に、両側面の肘から垂れ下がる衣文表現のなかに注目すべき点がある。木彫仏に多い断面の丸い大波と鎬ぎを立てる小波と交互に配するいわゆる翻波式衣文と呼ばれる彫法の部分に、一〇区のうち左方五区、右方一区に小波が二本ずつ配されている。この小波二本式の彫法にはかなりの類例があるが、一木彫の古式な作例に限られ、いずれも八世紀の作として考えられるものに用いられている。 以上のように、本像にみられる着衣の衣文表現には、世の尋常のものとは異なり、精神の直接的な表現として「奇」なる造形に近い性格をもっている。通常の如来像が寂静円満の境地を反映して、大きく豊かな気分を目指すのに対し、これは如来像が内面に包み蔵する強大な力を、一種のエネルギー表現として生々しく表そうとしたものに違いない。 本像のお顔は、類例のない個性的な風貌を示してある。卵型に近い長顔で目は細く、眉端は下がらず、小鼻は小さく鼻染は通り、いずれもさっぱりした印象をもつ。各部の肉付けもアクセントが少なく、表皮にはやや突っ張ったような感じがある。さらにせり出した上唇に下唇が吸いつくように強く結んだ口元など、一種の若々しい神秘相という他はない。 肉身はわずかに肥満への傾向を見せるが、鳩尾部の相寄った皺の表現は線的で、余り強く押し合う感じはない。 側面観は特徴的である。腹部から胸部に向かってはかなり後方へ反り気味で、これに応じて背部はかなり強い猫背となっている。両足部はやや低く。奥行きも浅い。胸を後方へ引くこの体型は、材質を問わず、八世紀以前の作例に多い。 さて、この像の造形上の不可思議ともいえる作風について、その神秘世界の扉を開く一つの鍵が、日本に依存した二種の密教図像の中に隠されていた。その一は、醍醐寺に伝わった『求聞持法根本尊図像』であり、その二は奈良国立博物館所蔵の『胎臓図像』である。 醍醐寺本は、智恵を増進する秘法「虚空蔵求聞持法」の夲尊仏として有名なもので、大安寺僧道慈が養老二年(七一八)に中国から請来し、善議、勤操などに伝えられた原本を敷き写したものと推定される。本尊虚空蔵菩薩坐像は、大円相中に納まり、頭体のそれぞれから光円と光條を発する珍しい姿で、冠帯と天衣は、下方から強く舞い上がって、生きもののような生動感を帯びている。衣分表現をみると、数多い平行衣分線が密に流れるのが特色で、粘りを感じさせる作風や足膝部を縦に横切って蓮華座に達する天衣が、左右衣端を蛇行させる点など、高田寺象と同形式のもので衣分の全体および部分に、両者に共通する表現が感じられる。 次に、奈良国立博物館本『胎臓図像』は、巻首、巻末の記によると、次のような由緒がはっきりする。インドへ遊学した唐僧無行は、帰国の途次北インドで亡くなったが、彼が収集した梵本(サンスクリット本)をもとにして、開元十二年(七二四)善無畏が洛陽の大聖善寺において『大昆虚遮那成佛神変加持経』七巻を漢訳した。その中から大悲胎臓生秘密曼茶羅の主要な尊像を図で描いたものがこの図像である。日本へ伝わったのは一世紀余り後の天安二年(八五八)、天台僧円珍が帰国する際であったが、インド風の濃いこの図像のような表現が、先の醍醐寺本図像と同じ頃に中国に伝えられていたことは疑い無い。 この図像の如来形は、衣分線が多いが、本体の肉身の起伏は、衣文線を途切れさすことにより、はっきりと表わしている。冒頭に描かれた五如来のうち四躯が脇の下に縦長の渦巻文を表しているが、平明に表された如来の中で、この渦文だけが重い精神のかたちとして表されている点に興味がもたれる。高田寺象の脇の下の渦文の先例と考えられる。後の例では九世紀半ばに造られた、室生寺夲尊薬師如来立像の板光背の彩画の化仏がある。 両者の相似関係は渦文だけでなく、お顔の表現にまで及ぶ。相似た長顔で、若々しく、額が狭い点も共通する。いかにもこのような新来のインド風のお顔を手本にしながら彫刻として彫ったものと考えられよう。 以上のような諸点を総合的に考えると、高田寺象は、八世紀前半あたりの作えではないかという推論に傾いていくのであるが、遺された史料は高田寺のはじまりとその後の経過についてどのようなことを語っているのであろうか。 まず寺伝として、高田寺は養老四年(七二〇)僧行基開創設がある。また尾張高田寺は壬申の乱(六七二)の功巨高田首新家の筋を引く一族の氏寺であったらしい。 彼は大宝三年(七〇三)七月に没したらしく(『續日本記』)、寺開創の養老四年は教えて十七年目に当たる。現在仏家では、十七回忌の習わしがあるが、当時その習わしが存在したかどうかは確かではない。しかし、可能性として、天平宝字七年(七六三)高田寺の僧を殺して罪せられた(『續日本記』)高田眦登足人の父、首名が、父新家の菩提を弔ってその忌年に建立したことも考えられる。そして、寺伝にいう行基が、この建立に際し、何らかの関係をもったことも有り得ないことではないと私は考えている。 いま、高田寺像の特色を形の上からしっかりと見凝め、世に行われている九世紀説や中世説などが全く有り得ないことを実感する。その上でこの像がもと素木像であったらしいことの意味を説いて終りとしたい。 木彫のはじまりは、インドで白檀という香木仏が造られたことによる。仏体が香気を発する貴重材であることは当然望ましいことであった。白檀を産しない東アジアでは、南方から材を輸入して白檀仏を彫ることも行われたが、各民族それぞれの香木を用いて代用材による造像を行うようになった。日本では、カヤクス、カツラ、サクラ、ヒノキなどが用いられ、白檀像と同じく、彩色や金箔を施さない素木の像として、観念上の香気を発する木彫仏が造られ、銅、乾漆、塑などの香気とは無関係の仏像に対して、一段と靈驗あらたかな像として高い信仰を集めた。高田寺像も、その一例ではないかと私は推定している。 世にも稀な、唯一無二のお姿をもつ高田寺本尊の薬師如来像はこうして成った。おそらく、八世紀前半頃に唐で行われた当時最新のインド風密教尊像の形をもとにして、行基の感得によって代用材による香木仏として造成されたものであろう。その結果、複雑な凹凸をもつ仏体に特色は、素木像の故に余すところなく表現され、私たちに強く訴えかけ続けるのである。 |
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